紹介 鈴木良雄さん(11期)ジャズとともに

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紹介 11期 鈴木良雄さん ”ジャズとともに”

ジャズはパクスアメリカーナを代表する音楽文化です。太平洋戦争の戦塵がようやく沈静化する頃から、ジャズは多くの日本人を魅了してきました。松溪11期同窓生鈴木良雄さんは演奏家(ベース・ピアノ)、作曲家として日本ジャズ音楽を先導、現在も毎日各所を移動しながら演奏活動をされています。

「鈴木良雄さんプロフィール」                        
1946年長野県木曽福島生まれ。音楽家の両親と“鈴木メソッド”創始者の伯父鈴木鎮一の下、幼少の頃からバイオリン・ピアノに親しむ。早稲田大学文学部卒。早大モダンジャズ研究会ではピアノを担当。卒業後渡辺貞夫に師事。彼のバンドへの誘いもあってベースに転向。1969年~73年の間、渡辺貞夫、菊池雅章のグループで活躍。
 
1973年渡米、74年スタン・ゲッツ・グループ75年~76年アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのレギュラーベーシストとして活躍。

1985年帰国後、自己のグループMATSURI、93年にEAST BOUNCEを結成。
2002年新グループBASS TALKを結成、2004年11月には草月ホールでその発売記念及びデビュー35周年記念コンサートを開催。
2008年3月草月ホールでBASS TALKの集大成としてのコンサートを開き、全国65ヶ所に及ぶ「Love Letter」プロモーションツアーを行う。
2008年2月若者たちとのバンドGENERATION GAPを結成。
2009年10月ベーシストデビュー40周年を記念して ケイ・赤城、秋吉敏子、小曽根真、イサオササキ,野力奏一、山本剛という6人のピアニストとのDUOのCD「My Dear Pianists」をリリース。
2010年1月南里文雄賞を受賞、2月には紀尾井ホールでコンサートを開く。
2011年6月にギターリスト増尾好秋とのDUOアルバムを発表し日本全国70か所に及ぶツアーを行う。
2012年6月
BASS TALKの新譜「Dancing Luna」をリリース、白寿ホールで発売記念コンサートを開く。
2015年3月ファーストアルバム「Generation Gap」をリリース。同3月モーション・ブルー・ヨコハマで和太鼓と共にCD発売記念ライブを開催。
2016年竹書房よりジャズ入門書「人生が変わる55のジャズ入門」を出版。
2019年3月6年ぶりのBASS TALKの新譜「Beyond the Forest」リリース。 5月にHAKUJU HALLでコンサートを開く。 ニックネームは ”チンさん”。

現在のご活躍はご自身の美しいウェブサイト「https://chin-suzuki.com」でご覧下さい。代表的なCD/DVDアルバムの紹介と視聴を楽しめますし、鈴木さんを育んだNY生活ブログ「ニューヨークの思い出」「https://chin-suzuki.com/memoryofnyc/」がお薦めです。

2017年12月10日、音楽ウェブサイトを運営する”Arban-mag”社が「証言で綴る日本のジャズ」と題し鈴木さんへ5回にわたるインタビュー、鈴木さんの語りを通して、日本ジャズ界の創成を記録しました。鈴木さんが早稲田大「ジャズ研」から渡辺貞夫さんと出会い、NYへ旅立つエピソードは良く知られていますが、このインタビュー前半では、鈴木さんの生誕から大学入学までの少年期の音楽との関わり、ジャズとの出会いが語られる貴重な記録となっています。一部ですがここに紹介します。
インタビュー全文はこちらをご覧下さい。PDFファイルを表示

疎開先で生まれて
——生まれは?
長野県木曽福島で、1946年3月21日です。
——東京に出てきたのは?
中学一年になったとき。木曽福島は疎開先で、小学校六年までそっちにいたから。
——疎開先は親戚筋?
それは名古屋の親戚関係。木曽川を遡れば木曽福島だから、名古屋とは縁が深い。両親と親戚が知り合 いを頼って、住み着いた。
——鈴木家はもともと東京だった?
祖先は名古屋だけど、うちの家族は東京の大森にいた。そこを焼け出されて、親戚と一緒に疎開する。オレはそこで生まれて、住み着いた形になって。姉貴が桐朋学園に行くので、オレより1年早く親父と東京に出て。オレとお袋と、一緒にいたお手伝いさんとかはあとから。
——東京はどこですか?
最初は荻窪。中学、高校とあの辺の学校を出て。
——木住野佳子(きしのよしこ/p)さんと同じ高校だとか。
よく知ってるじゃない(笑)。阿佐ヶ谷の杉並高校。
——チンさん(鈴木良雄の愛称)は鈴木ヴァイオリンやスズキ・メソード(注1)の一族 で。 伯父の鎮一)が松本でスズキ・メソードを始めた。 (注1)1887年、三味線職人だった鈴木政吉が初めて見たヴァイオリンに惹かれ、見よう見まねで制作を開始。翌88年に第1号完成。90年に工場を建設し、本格的な生産を開始。創始者である鈴木政吉の長男の鎮一が、46年、長野県松本市に松本音楽院を設立したことに始まる。才能教育五訓を根幹にした「母語教育法」に特徴があり、海外にも積極的に進出。現在の生徒数は公表で世界中に40万人。
——チンさんもそこでヴァイオリンのレッスンを受けたんですか?
3歳から親父にヴァイオリンを習っていて。3つ違いの姉はスズキ・メソードの血を引くというか、子供のころにスパルタ式に鍛えられたみたい。オレのときは親も疲れて、「適当にやってろ」(笑)。お袋はスズキ・メソードでピアノ教師の長だった。だからピアノも小学校の四、五年くらいまで手ほどきを受けて。でも〈エリーゼのために〉とか、あのへんのちょっと上くらいまでができただけの話で、本格的にはぜんぜん。

——お父様はなにをされていたんですか?
親父は鈴木ヴァイオリンの木曽福島工場の社長をやって、工場製と手工品のヴァイオリンを作ってた。いろいろなことがあって、工場がひと手に渡ったんでときどき東京に出て、手工品のいいヴァイオリンを作って売っていた。 お祖父さんが鈴木政吉といって、ヴァイオリン王といわれているひと。尾張の下級藩士の息子として生まれて、最初は三味線作りで、のちにヴァイオリンを作るようになった。鈴木ヴァイオリンはかなり大きくなったけど、戦争とかがあって。その後に鎮一がスズキ・メソードを始めた。親父はヴァイオリンも弾くし、ヴァイオリンも作る。あのころでは珍しい鈴木カルテットという弦楽4重奏団もやって。鎮一が第1ヴァイオリンで親父が第2ヴァイオリン、ヴィオラとチェロも兄弟で。お爺ちゃんには十何人か子供がいるから。
最初の音楽体験
——最初の音楽体験は?
3歳のときのヴァイオリンかな。お袋がピアノを教えていたから、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの曲とか、姉貴もヴァイオリンをやっていたからそういう曲は小さなときから耳にこびりつくくらい聴いていた。 自分でもピアノを習っていたし。 あとになってのことだけど、ベースには弓弾きがふた通り、逆手で弾くジャーマン・スタイルと順手のフレンチ・スタイル。ヴァイオリンは順手だけど、最初は逆手だったからなにか馴染めなかった。それで順手がいいと、フレンチ・ボウに変えてみたらぜんぜんやりやすい。アップ・ボウ、ダウン・ボウがあって、「この音符はアップ・ボウでいってからダウン・ボウにすればいい」って自然にできる。ほかは覚えてないけど、これだけは身体が覚えていた(笑)。
——クラシック以外の音楽が最初に耳に入ってきたのはいつごろ?
最初に驚いたのは、お祭りで町の拡声器から流れてきた歌謡曲。「なに、この音楽は?」。〈お富さん〉ってあるでしょ。それまでは西洋音楽しか聴いてなかったから、「これも音楽なのかな?」と思ったのが、最初のショックというか。
——それがいくつのとき?
小学校の二年とか三年とか。あとは中学一年のときに林間学校で山に行ったときに、同級生がウクレレを弾いて歌ってた。そのときに初めてポピュラー音楽を生で聴いて。女の子に「キャーキャー」いわれているのを見て、「これ、いいなあ」。帰ってすぐ親父に「鈴木ヴァイオリンにウクレレないの?」って聞いたら、「あるはずだよ」。ウクレレはすぐ弾けるようになった。
——見よう見まねで?
レコードを聴いたかは覚えてないけど、コード譜があればウクレレは簡単。あとは、そいつが歌っていたハワイアン。「ああ、やんなっちゃった」みたいなヤツ(笑)。
中学のときはウクレレを一生懸命にやって、それでけっこう弾けるようになった。 高校に行ったら、一年の臨海学校で、今度はギターを弾いているやつがいて(笑)。ウクレレに比べたら音楽的だし、「かっこいい、絶対にやらなくちゃ」と思って、親父に(笑)「ギターないの?」。それでギターを始めて、要するにコードを弾きながら歌うスタイル。ブラザーズ・フォアやトリオ・ロス・パンチョス、あとは〈禁じられた遊び〉とかのクラシックもやった。 高校の3年間はとにかくギターにのめり込んで、毎日のようにいじってた。テレビを見ながらでもギターを弾いて、「あのコード、なんだろう?」とやって、絶対に手から離さなかった。ギターを弾くきっかけにもなった友だちとコーラスもやってた。屋上に行く階段の途中に吹き抜けがあって、そこでやると音がすごく響くんで、気持ちがいいし、誰も来ない。そこで毎日のように練習してたら、ほかにも「入れてくれ」っていうやつが来て。 そいつは高校三年にしては珍しくモダン・ジャズも知ってたんだよね。その3人でコーラスをやって、文化祭に出たりして。女の子に受けるように、流行っていた〈高校三年生〉もやって。「キャーキャー」いわれるのが快感で(笑)、動機は不純だよね。
ーージャズとの出会い
3年のときに喫茶店で勉強していたら〈テイク・ファイヴ〉が聴こえてきた。それがすごく衝撃的で、「なんだろう、この音楽?」「同じパターンの繰り返しだし、拍子も違うし、いままで聴いたことのない音楽だ」みたいな感じで、釘づけになった。一緒にコーラスをやっているジャズ好きに、「こんなリズムの曲、知ってる?」って聞いたら、「それ、〈テイク・ファイヴ〉だよ」。すぐレコードを買いに行ったら、その曲が入っていたデイヴ・ブルーベック(p)の『タイム・アウト』(コロムビア)があって、それが一番最初に買ったジャズのLP。 アブストラクトな絵を見ているような感じで、いままで聴いていたものとはぜんぜん違う音楽だなと思った。『タイム・アウト』の中にはクラシック的な曲がいろいろあるじゃない。それもあって、入りやすかった。 ピアノがちょっと弾けてたから、「どんなことをやってるんだろう?」と思って、完璧じゃないけどパターンをコピーしてみたの。同じアルバムに入っていた〈トルコ風ブルー・ロンド〉も面白かったし。

どうせ大学は浪人と思っていたら、うまく引っかかって早稲田に入っちゃった。クラブに誘う新入生歓迎会コンサートが「大隈講堂」であって、ハイソサエティ・オーケストラとか、ニューオルリンズジャズクラブとか、ナレオ・ハワイアンズとか、モダン・ジャズ研究会、あとはマンドリン・クラブも出てたかな? ギターをやってたし、ジャズにも興味を持ち始めていたから、「オレもなにかやりたいな」と。 そうしたら出店があって、最初に行ったのがジャズ研の出店。

「最近、ちょっとジャズに興味をもってきたんですけど」といったら、「来週の火曜日にオーディションをやるから部室に来いよ」。それで扉を開けたのが運命のわかれ道(笑)。パンドラの箱じゃないけど、開けちゃった(笑)。けっこう吹けるヤツもいて、課題曲が〈イエスタデイズ〉。オレはなんにも知らないけど、途中までメロディを弾いて、「あとはわかりません」「じゃあ、お前は座ってろ」。みんな終わって、「これだけか?」となったときに、「ちょっとピアノも弾けるんですけど」といって〈トルコ風ブルー・ロンド〉を弾いたら、みんながびっくりしちゃって。 「すごいじゃないか」。

すごいとは思っていなかったけど、「お前はピアノをやれ」。それでギターはやめて、ピアノになった。 ——クラブなのにオーディションがあるんだ。 どのくらいできるかのチェックだよね。変なクラブで、老けたひとがいたから「顧問の教授かな?」と思ったら学生だったとか(笑)。サングラスしてドラムスを叩くひともいて、「このひと、ヤクザかな?」。それがマネージャーだったり(笑)、もうビックリ。こっちは高校を卒業したばかりでウブだから。 1年のときは、とにかくピアノを一生懸命にやって。そのころは教えてくれるひとがいないから、「どうしたらああいう音がするんだろう?」。左手にセヴンスの音を持ってきて、「ああ、これだ!」と見つけたときは嬉しかった。

そうやってある程度わかってきたころ、2年のときだけど、増尾(好秋)(g)が入ってきた。部室にベースが転がっていたから、〈朝日のようにさわやかに〉や〈枯葉〉とかはなんとなく弾けるようになっていた。それでオレがベースを弾いて、増尾とやったの。そうしたら滅茶苦茶にうまいし、サウンドもドミソじゃなくて、テンション・ノートも使っていて驚いた。ウエス・モンゴメリー(g)とかのコピーだったけど、レヴェルがぜんぜん違う。オクターヴ奏法もできるし、レコードから聴こえてくるようなサウンドがしていた。 「誰にも教わらないで、レコードを聴きながら自分でやってきた」っていうし。周りにそういうひとがいなかったから、初めてひとと合奏したのがオレだった。増尾は、オレよりぜんぜん早くて、中学のころからジャズをやってた。それまでにも音楽のできるひとには会ってたけど、「こいつはすごい」と思ったのは増尾が初めて。
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